あみだ池大黒

日本古来のお菓子として人気を博してきた「おこし」。海を渡って伝えられた味は、食文化の街である大阪で発展していきました。その歴史と深くかかわる老舗店「あみだ池大黒」で、おこしの足跡をたどります。

あみだ池大黒

【本店】大阪府大阪市西区北堀江3丁目11-26 06-6538-2987 
【西宮本社】兵庫県西宮市西宮浜1丁目4-1 0798-36-1854
http://www.daikoku.ne.jp/
1805年(文化2年)創業の200年を超える菓子店の老舗。初代・小林林之助氏が年貢米を運んでいた千石船から良質米を安価で手に入れ、それを原料に「お米のおこし」の製造・販売を開始。以来、独特の食感と味わいが巷で評判を広げ、大阪を代表するお土産として不動の地位を確立した。昨今は伝統の製法や味を重んじながらも、時代を読んだ新しい商品づくりにもチャレンジ。和と洋を融合させた次世代商品ブランド「pon pon Ja pon」(ポンポンジャポン)「マシュー&クリスピー」は、これまでのおこしの概念を覆し、若い世代にも浸透している。

貴族の嗜好品から庶民の味へ

蒸したお米を乾燥させ、パフ状に炒ったもの。サクッと香ばしい味と香りの秘密がこの炒り具合にあります。

お米や雑穀などを加工し、しっかりと水飴で固められたおこしは干菓子(ひがし)の一種。噛み応えのある食感と口の中で広がる素朴な甘さ、香ばしい香りが親しみやすく、世代を超えて支持されています。

おこしは平安時代、遣唐使によって伝えられました。当時の辞書『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)につくり方が紹介されていることからも、その人気ぶりをうかがい知ることができます。古くは「おこしめ」と呼ばれ、お米が原材料に使われたことから「興米」「粔籹」の字を当てていました。また、平安時代の法令集『延喜式』(えんぎしき)にもおこしめについての記載があり、天皇の即位儀礼の一つに定められた食べ物で、奈良時代には豊作祈願として神々にお供えされていたようです。現在も奈良・春日大社や京都・下鴨神社で行われる重要な神事におこしは欠くことができません。

そんなおこしは、貴族など上流階級にだけ許された食べ物として徐々に広がっていきます。庶民も気軽に口にできるようになったのは江戸時代に入ってから。まだまだお米が貴重だったことから、粟やハトムギ、ひえなど質素なものでつくっていました。ゆえに粟おこしという名が付いたと言われています。

縁起の良いお菓子

昭和16年ごろの工場の様子。業界初の近代工場の完成で量産体制が整い、売り上げも右肩上がりに。

ひと口におこしと言っても、東京・浅草の雷おこしをはじめ各地には数々の名物おこしが存在します。特産物を加えたり食感に変化をつけたりと、地域によって少しずつ特色が異なるのもこのお菓子の興味深いところでしょう。とりわけ大阪では、古くから地元を代表する銘菓として掲げられ、今も昔もお土産の大定番です。

おこしが大阪の名物となったのには理由があります。江戸時代、天下の台所と呼ばれた大阪には全国各地からおいしいものが集まっていました。おこしづくりに必要なお米や砂糖、水飴も安易に手に入り、上質なものをそろえることができました。また大阪は食い倒れの街として独自の食文化が栄えてきた地。おいしいものへの飽くなき追求心がおこしにも及び、お米をあえて粟のように粉砕した「お米の粟おこし」が誕生します。大阪だからこそ生まれた、このお米を使った「おこし」は、他の地方でつくられた雑穀の「おこし」よりもおいしいと人々を引き寄せ全国へと拡大。「身をおこし、家をおこし、国をおこして、福をおこす」という縁起の良いお菓子として世に知られるようになりました。


大阪おこしの老舗店

お話をうかがった小林隆太郎会長。ユニークなアイデアで数々のヒット商品を世に生み出してきました。おこしを薄型に食べやすくした「浪の詩」は小林さんの自信作。第27回全国菓子大博覧会・三重では名誉総裁賞を受賞しています。

大阪にはこだわりの製法を守り、オリジナルの味で勝負するおこしの店が大小いくつもあります。なかでも「あみだ池大黒」は大阪でおこしの製造に力を注ぐ老舗。長く商いを行っていくためには伝統にあぐらをかかず時代に則した変化も必要と、しなやかに革新を続けてきました。

今回お話をうかがった六代目・現会長の小林隆太郎さんは、業界の枠にとらわれることのないユニークな試みで注目を浴びてきた人物。商売の精神やものづくりへの思いは、のれんを受け継いできた先代たちの教えに習ってきました。

あみだ池大黒がおこしづくりを手掛けるようになったのは1805年から。初代・小林林之助氏が岐阜から大阪の菓子商へ丁稚奉公にやってきたのがきっかけでした。そこでお菓子づくりの技を覚え、のれん分けで独立。菓子商人となります。当時の大阪は日本経済の中心地として勢いがあり、商都として栄えていました。商才に秀でていた林之助氏は、1833年に製造所を併設した店舗を開店。年貢米を運ぶ千石船から良質米を安価で入手し、それを原料に「お米のおこし」の製造・販売を始めます。味の良いお米のおこしは評判を呼び、人々が土産にとこぞって買い求めるようになりました。

「恩賜のおこし」が起こした転機

恩賜のおこしの積み出し風景。三代目当主(写真中央)の背丈を越すほどに大量のおこしが積み上げられました。

二代目当主も優れた商売感覚でのれんを発展させ、三代目当主に代わってからも順調に業績を伸ばしていました。そんなあるとき転機となる大きな出来事が起こります。

時代は日露戦争の真っただ中。明治天皇から戦地への慰問品として贈られる恩賜のお菓子に、あみだ池大黒の粟おこしが選出されました。その数はなんと35万箱。納品までに許された期間は3ヵ月しかありません。職人の手でコツコツと製造していた当時では、これほどまで大量のおこしを短期間でつくり上げることは至難の業。とはいえ、陛下からの命とあっては投げ出すわけにもいかず、三代目当主は切腹覚悟の不眠不休でこの難題に挑みました。そして、職人たちの努力が実を結び、無事納期内に製造を終えることができた「恩賜のおこし」。菊の紋章が刻まれ、積み出し時は店頭を埋め尽くすほどでした。その様子を見た三代目当主は、誇らしさと同時にほっと胸をなでおろしたに違いありません。

苦労を重ねたおこしは戦地で兵隊たちの労をねぎらい、おいしいと人気を集めます。こうして全国にあみだ池大黒の名がとどろき、1945年(昭和20年)まで大阪で唯一、宮内省御用達の栄誉を授かることになりました。またこの経験を足掛かりに、四代目当主はおこしの量産を可能にする業界初の製造工場の建設に着手。家内工業が主だったおこしづくりを一気に機械化へと推し進めることとなりました。


機械化しても職人技が頼り

機械が並ぶ工場内。繁忙期にはフル稼働し、多数ある商品を安定して生産しています。

兵庫県西宮市にあるあみだ池大黒の本社工場では、毎日多種多彩なバリエーションのおこしが製造されています。昔のおこしづくりは一人前と認められるまでに10年かかると言われた厳しい世界でした。師に教えを請うのではなく、下積み時代を経て技を覚えていたそうです。現在では製造の中心が人の手から機械へと代わり、商品の均一化や安定した大量生産を実現。けれども職人の勘が頼りの工程ではオートメーション化が難しく、ベテランから若手へと技術が引き継がれています。

おこしづくりはまず、蒸したお米を乾燥させるところから始まります。あみだ池大黒ではお米は昔から播州米と決まっており、もち米は佐賀県産のものを使用。小林さんは「おこしは素材がシンプルなので味のごまかしは一切ききません。だからこそ、職人の繊細な技が重要になってきます」と言います。工場内では機械がフル稼働しながらも人手が多く、丁寧な作業の一つ一つに商品への深い愛情が垣間見えます。

乾燥させたお米は、その後炒ってパフ状にします。パフの大きさはさまざまで、商品ごとに使い分けるこだわりがあるそう。釜では水飴と砂糖を火にかけ飴をつくり、頃合いを見ながらお米のパフと合わせます。飴の炊き方や混ぜ方にも代々受け継がれてきたオリジナルの製法があり、忠実に技が守られてきました。おこしづくりの大敵は気温と湿度。日によって微細に変化する製造環境に神経をとがらせながら、高い品質の商品を生み出しています。

昔のおこしはなぜ硬い?

昔ながらのおこしは上から重さをかけ、ぎゅっと押し固めていくことで独特の硬さが生まれます。出来立てのおこしはほんのりと温かさが残り、香ばしさが際立ちます。つい手が伸びてしまうおいしさ。

板状になった昔ながらのおこしは、時代が移り行く今もあみだ池大黒にとって主軸となる大事な商品です。いつ食べても変わらない素朴な味わいが魅力ですが、併せて「硬い」というイメージが浮かぶ人も少なくないのではないでしょうか。特に岩おこしは、丈夫な歯がなければ食べるのをためらってしまうほどです。実はこの独特の硬さに大阪人らしい遊び心が隠されていました。

江戸時代中期の大阪は、運河をつくるための工事が盛んに行われ、街中に岩がゴロゴロと掘り出されていました。それを見たシャレ好きな大阪人は、お米をより細かく砕きショウガを加えた硬いおこしをつくり、「大阪の掘り起し、岩おこし」と命名して販売。大ヒットを巻き起こしました。しかしどうして人々に硬いおこしが好まれたのでしょうか。その理由を小林さんは次のように話します。

「昔のおこしはガリガリと噛んで食べるものではなく、舐めて味わうお菓子でした。甘いものが貴重だったので、口の中でできるだけ長くとどめて楽しんでいたんです。ですから元来おこしは硬くなければならないと、私もお客さんによく言われたものです」。昭和の終わりごろからは小さな子どもや年配の人に向けた食べやすいおこしへのニーズも増え、小林さんのアイデアで薄型に改良した「浪の詩」を発売。パッケージもスタイリッシュになり、新たな市場を開拓していきました。


斬新さを打ち出す新ブランド

チョコレートをコーティングしたチョコクランチをいち早く商品化し、若者層から人気を得ました。「pon pon Ja pon」はこれまでになかった味と食感が特徴。風船のようにぷっくりとふくらんだパッケージもかわいらしいと人気です。

「暖簾は絶えず作り直していくもの、暖簾にあぐらをかくことなく、日々是新」を社是とするあみだ池大黒。いつの時代も新たな商品の研究に余念がありません。近年、特に力を注いでいるのが若い世代にアピールできる新感覚おこしの開発です。

2011年に満を持して旗揚げしたのが新ブランド「pon pon Ja pon」(ポンポンジャポン)。従来のおこしに使われている素材をベースに、ドライフルーツ、アーモンドといった洋のテイストをプラス。12種類の個性に富んだフレーバーを用意し、選べる楽しさを提案しました。ひと口で食べられる大きさ、サクサクと軽い食感、カレーや胡麻きんぴらなど一風変わった味のバリエーションが斬新と一躍注目の的に。業界に新風を吹き込みました。

また、アメリカのおやつからヒントを得た「マシュー&クリスピー」は、味だけでなく見た目のインパクトにも着目。ライスクリスピーとマシュマロをミックスさせたベースの上に、カラフルなチョコレートでデコレーションしたり、クッキーやグラノーラなどをトッピングしたりと工夫を凝らし、食べる喜びを広げています。キュートなビジュアルが若い女性の心をつかみ、おこしのイメージを一新することにも成功しました。

現場の感性を商品に生かす

従来のおこしにアメリカンテイストを散りばめた「マシュー&クリスピー」。SNS映えするビジュアルが女性に好評です。「マシュー&クリスピー」のデコレーションは一つずつ手作業。均一にデザインするにはコツが必要です。

「pon pon Ja pon」や「マシュー&クリスピー」といった新商品の開発に積極的に携わっているのは若手社員や女性社員です。小林さんは現場感覚を信頼し任せていくことで社員の目も育つと期待を寄せます。

「pon pon Ja ponのネーミングも女性社員の意見を尊重しました。私は最初聞いたときに大丈夫かなと多少不安があったんですが、結果的には大ヒット。時代を敏感にとらえて発信していくには、社長がいちいち口出ししていてはダメですね。ある程度若い人や女性の感覚にゆだねることが、会社が成長していくうえで非常に大事だと考えています」。

おもしろいと思うことにはこれからもどんどんチャレンジしていきたいと、尽きることのない情熱を語る小林さん。「昔は大阪の名物といえばおこしと昆布でした。私たちはもう一度ナンバーワンの座を目指してがんばっていきたいと思っています」。 さらに躍進していくなにわの伝統菓子からますます目が離せません。

【コラム】大阪のおこしだけのパッケージ柄

粟おこしと岩おこしを包んでいる包装紙を見ると、鮮やかな赤い梅鉢の紋が施されています。実はこの柄には歴史と深いかかわりがあります。奈良時代末期、右大臣・菅原道真公が大宰府に左遷される際、大阪の上町台地で船待ちをしていました。その様子に気付いた村人が、慰めにと粟おこしをつくったそうです。たいそう喜んだ道真公はお礼に「梅鉢の紋の小袖」を渡し、「この紋を付けて広めろ」と言われたとか。以来、大阪のおこしにだけに許された特別な柄として使われるようになりました。(『潮待天神社縁記』より)

(2017年8月 取材・文 岸本 恭児)