一千年の時を超えて女性たちがつなぐ京のあぶり餅

千利休が茶菓子がわりに用いたとも言われているあぶり餅。今宮神社の境内にある茶店「一文字屋和輔」が丹精込めて手作りする京の名物和菓子です。食べることで疫病から逃れられたという逸話が残るその味は唯一無二。竹串に刺した親指大ほどの餅を炭火であぶると、辺りには香ばしい香りが立ち込め、たっぷり絡ませた上品な白味噌のたれが京都らしい味わいを深めます。

今回は、伝統の味と製法を受け継ぐ二十五代女将長谷川奈生さんに、あぶり餅の誕生秘話や一千年続く秘訣についてうかがいました。

長谷川奈生様

京都・今宮神社の境内に店を構える長保2年創業の「一文字屋和輔」。長谷川奈生さんは二十五代の女将として店を切り盛りする。名物は今宮神社の神事に寄り添い生まれたあぶり餅。製法は代々口伝で継承され、その味は一千年を超えて血族で守られてきた。応仁の乱のころには民衆への奉仕として餅を振る舞ったとも伝えられている。現在も今宮神社とは深い縁でつながり、今宮祭の神輿には同家が蒸したもち米が神饌として供えられている。歴史を色濃く刻む茶店は、景観重要建造物に指定。
一文字屋和輔(一和)
京都市北区紫野今宮町69番地 075–492–6852

一千年以上変わらない味

当家のあぶり餅はもち米100パーセント。原材料はもち米のほかにきな粉、上白糖、白味噌、餅とり粉だけです。昔から何一つ変わっていません。仕込むのは毎日売り切ってしまえる分だけ。餅にきな粉をまぶして焼いて、自家製の白味噌のたれを絡めます。店先に置いた備長炭に餅を近づけたり離したりして、ぷーっと膨れてきたら出来上がり。備長炭は硬くて火が起こるのに時間はかかりますが、700〜800度の高温になり、香り良く上がり火の持ちもいい。これでないと同じ味にはなりません。ただ夏場は暑くて暑くて大変です。お店の前で火を使って焼くなんてことは、今ではなかなか許可してもらえないんですが、当家は特別に許しを頂戴しています。

直火で焼いているのに串が焦げていないのは、焼き方にちょっとした加減があるから。簡単そうに見えて、実はコツが必要なんです。餅刺し3年、焼き10年言うてね。串もあっち向いて刺せるようになるまでは、そこそこ時間がかかるもんです。竹でできた串は1本ずつ先だけ割ってあります。これにはきちんと理由があって、餅が膨れたときにコロンと落ちてしまわんように挟んでいるんです。修学旅行の学生さんが餅焼きの体験をされることがありますが、素人さんが焼くと串も餅も焦げるばかりで、上手には膨れません。

餅にはけっこう焦げ目がついているでしょう。でも食べても苦く感じないのはきな粉のおかげ。きな粉がまぶしてあるから焦げが香ばしさに変わるんです。先人のすばらしい知恵ですよね。


個性的な味を生む味噌だれ

味噌だれは毎日私が手作りしています。ベースは京都ならではの白味噌。作った味噌だれはすり鉢に移します。すり鉢を使うのにも理由があって、他の器やと何やおいしくないんです。すり鉢特有の凹凸が焦げを適度にこそげ取ってくれて、あぶり餅を作るのになくてはならない大事な道具の一つですね。

でもどうやら最初は、味噌だれはつけていなかったようです。昔々は串で刺した餅をあぶっただけでお出ししていたみたいですが、京都の人たちが料理に白味噌を使うようになってから、現在の味噌だれが生まれたと考えられています。

当家では餅もそうですけど、味噌だれにも保存料や防腐剤は一切加えていません。せっかくの味噌の香りが飛んでしまうのが残念ですが、蒸し暑い夏は火を入れて味噌だれが傷むのを防いでいます。一番おいしいのはやっぱり生味噌。風味が格段に違うんですよ。冬場などは生味噌で召し上がってもらいます。1人前は13本で小餅1個分。焼きたてをすぐに食べてもらうのが醍醐味です。冷めたらすぐに硬くなって味が落ちてしまいますから。最初の1本と最後の1本ではもう硬さが違うんですよ。それが本当のお餅というもの。食べるのは時間との勝負ですよ。

あぶり餅と今宮神社の関わり

あぶり餅が誕生したのは平安時代のことですが、あぶり餅の発祥と今宮神社の歴史には深い関わりがあります。今宮神社がある場所には、平安建都以前から疫神を祀る社があったと言われています。平安京が都市として栄える一方で、人々は疫病や災厄に悩まされていました。それを鎮めるために御霊会(ごりょうえ)が営まれ、現在の社地にあった疫神が船岡山に安置されました。長保3年に疫神が再び今の地に移り、今宮社と名付けられたのが今宮神社の起源です。

当家は今宮社に関わる家の中から疫神へのお供え物を担当するものとして境内の土地を拝領いただき、以来ずっと神社の神事に寄り添ってきました。あぶり餅は今宮神社に神饌として供えた餅をお下がりでいただいて、できるだけ多くの人に分けたいので小さくし、硬くなったので奉納された斎串(いぐし)で串を作って焼いたことからこの形になりました。疫神からのお下がりとしてあぶり餅にご利益があると考えられるようになり、神事の一環として広まった紫野の名物和菓子が今に続いています。


血族が口伝で守る製法

当家にあぶり餅のレシピは一切ありません。作り方はすべて口伝。仕事は見て覚えます。一子相伝でないといけないとも決まってはいないんですよ。これまで血族で大事に受け継いできました。私はこの家の娘ですが、まさか自分が継ぐことになるとは夢にも思っていませんでした。先代が病気になったとき、たくさんいるきょうだいやいとこの中で、一番年上でずっと店を守れる者がたまたま私やったということ。他のみんなは子どもが小さくてまだ手がかかるころで、店の世話ができる状態ではなかったんです。私が跡を継いだのは運命ですね。

二十三代のおじいさんやおばあさんは、私たちきょうだいやいとこが小さいころから、あぶり餅とはこういうもんやと教えていました。正月にはみんなで餅を串に刺してね。友達は遊んでいるのに、なんで私らだけ餅刺しをせなあかんのやろと思てましたよ。今思うと、先代に何かあったときに誰でも跡を継げるようにしてたんやなと。先をきちんと見据えていたのは偉いなぁと思います。

男を立てる、敬うという家訓

当家は昔から女が家を守り、男は外へ稼ぎに出ます。今宮神社に寄り添う茶店なので、もともとお金をいただくという考えはなく、あくまでご奉仕。家の女たちに任された役割でした。今は私の兄が当主になっていますけど、きちんと会社勤めをしています。私たちが毎日生活できるのは、男の人たちの稼ぎがあるから。じゃないと、茶店はとっくに枯れてしまっていたでしょうね。

店の備品が壊れたときは、おじいちゃんが修繕費を出してくれます。ありがたいことです。古い家ですから、何でも男の人が一番。私が子どものときは男の人たちが先にごはんを食べて、私なんか下の方でした。正月のお雑煮には今も兄のお椀にだけ頭芋という大きな芋が入ります。それを3日間食べんといかんのです。兄はすっかり飽きて嫌がってますけどね(笑)でもこれも男の人を立てる、敬うということの一つ。女だけで生活できるようとなるとやっぱり態度に出るでしょうね。とは言っても、古い風習を守るのは私の代までになりそうです。もうそんな時代ではないですから。

向かい合う2軒の茶店の理由

みなさんには一和と呼んでもらっていますが、これは通称で、一文字屋和輔が茶店の正式な名称です。一文字屋というのは屋号。跡継ぎは代々和助を名乗ります。当時は屋号をいただける家は貴重でしたから、本当にありがたいことです。

昔の店構えは今ほど大きくはありませんでした。応仁の乱も乗り越え、建て直したり建て増したりして今に至ります。数百年を超す古い建物で景観重要建造物に指定されているので、定期的に手入れも必要です。この間は100年ぶりに耐震補強の修繕を施しました。宮大工さんにしかできない仕事もあって、コツコツと2、3年かけて完成したんですよ。

建物が何度も建て替えられて、家の歴史がわかる書物は残っていませんが、江戸時代の書物は当家が描かれていて、往時を偲ぶことができます。江戸初期の絵図には今宮神社の東門に「二軒茶屋」と書かれた建物があり、これが昔の一和です。江戸中期の名所都図会を見ると「だんご」と書かれたのぼりを立てた当家が描かれています。二軒茶屋の1軒は当家で、もう1軒が今も向かいにある、かざりやさんです。かざりやさんはもともと神輿の飾り職人さん。今宮神社を厚く崇敬されていた桂昌院様(徳川三代将軍家光の側室)が神輿を寄進されたころには、2軒並ぶ茶店として今宮神社を盛り立てていました。


家の発展を支えてきた井戸

茶店の中で一千年前からあったと言われ、まったく変わらないものといえば井戸です。店内の真ん中にある井戸は5mの深さがあり、平安時代からこんこんと湧き続けています。今も毎日お茶を沸かしたりするのに使っていて、欠かせない存在です。京都は昔から清らかな水に恵まれた地。豆腐やお酒がおいしいと言われるのは、やっぱり水がおいしいからでしょう。錦市場の賑わいを支えたのも井戸水です。けれども、残念なことに地下鉄が通ったときに水脈が変わってしまったところもあるようです。当家は今宮神社の側にあることで守られ、幸いにもこれまで水脈が断たれることはありませんでした。井戸は汲んでやらないと澱んだり枯れたりしてしまうので、守っていくことが大変。でもこの井戸がなければ、けっして茶店は続かなかったと感謝しています。

氏子さんの休みどころとして

京都は神社にお参りに行く風習が色濃く残る土地柄です。地元の神社の神様を氏神様、その地域に住まう人たちを氏子さんと呼び、氏子さんにとって氏神様は大事な存在とされてきました。この世に生を受けたら、氏神様にお宮参りに行くことで氏子の仲間入りをさせてもらい、七五三参りで健やかな成長を報告し、結婚式を挙げ、またお宮参りに行く……と家族の歴史は氏神様と共に脈々と続いていくわけです。今宮神社は氏子さんの地域が広く、昔はみなさん歩いて参拝されていたのでかなりお疲れやったと思います。一和が長く続いてきたのは、氏子さんやお参りに来られる人たちがほっと一息つける場所でありたいという揺るぎない気持ちがあったから。また氏子のみなさんからも贔屓にしていただけたからやと思います。

昔の一和は、今宮神社のお祭の日や毎月1日・15日のお千度神社詣での日、七五三のときなど、ハレの日や今宮神社の大事な日にだけ営業していました。江戸時代のある浪士の日記には、お祭りの時に当家で食事をしたことが記されているので、昔はあぶり餅以外のお振る舞いもしていたんでしょう。ほぼ毎日店を開けるようになったのは第二次世界大戦が終わってから。私が小さいころは日没までという営業のスタイルでした。夏場はえらく長い時間店を開けることになりますけど、昔の人はお日様と共に生活するリズムやったんでしょうね。

受け継いだ味を次の世代に

その日限りの賞味期限ですがお持ち帰りも用意していますし、忙しいときは私一人の手にはとても負えません。大番頭、小番頭がいてくれて、バイトの子たちががんばってくれて、ようやく店が回ります。バイトの子たちも長く勤めてくれているんですよ。先代も先々代も厳しい人でしたが、学生時代から働いてくれて、お嫁に行ってからも続けてくれている子もいます。ありがたいことです。

先代が亡くなってもう10年になりますが、今になってようやく、昔怒られていた理由がわかるようになりました。私が女将になるまでは、もっと要領のいいやり方もあるやろうと思っていましたけど、自分が継ぐことになった途端、作り方も茶店のスタイルも変えないと決めました。今の味を守るためには他のやり方は考えられませんね。これだけ長く続いてきたので、自分の代では潰されへんという気持ちも強いですよ。きっと代々の女将も同じ思いを持っていたんでしょう。今宮神社や氏子さんたちを大事に、これから先もこの場所で茶店を続けていくことが、私たちの役目やと思てます。

(2018年6月取材・文 岸本恭児)