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大阪おこしの老舗店

お話をうかがった小林隆太郎会長。ユニークなアイデアで数々のヒット商品を世に生み出してきました。おこしを薄型に食べやすくした「浪の詩」は小林さんの自信作。第27回全国菓子大博覧会・三重では名誉総裁賞を受賞しています。

大阪にはこだわりの製法を守り、オリジナルの味で勝負するおこしの店が大小いくつもあります。なかでも「あみだ池大黒」は大阪でおこしの製造に力を注ぐ老舗。長く商いを行っていくためには伝統にあぐらをかかず時代に則した変化も必要と、しなやかに革新を続けてきました。

今回お話をうかがった六代目・現会長の小林隆太郎さんは、業界の枠にとらわれることのないユニークな試みで注目を浴びてきた人物。商売の精神やものづくりへの思いは、のれんを受け継いできた先代たちの教えに習ってきました。

あみだ池大黒がおこしづくりを手掛けるようになったのは1805年から。初代・小林林之助氏が岐阜から大阪の菓子商へ丁稚奉公にやってきたのがきっかけでした。そこでお菓子づくりの技を覚え、のれん分けで独立。菓子商人となります。当時の大阪は日本経済の中心地として勢いがあり、商都として栄えていました。商才に秀でていた林之助氏は、1833年に製造所を併設した店舗を開店。年貢米を運ぶ千石船から良質米を安価で入手し、それを原料に「お米のおこし」の製造・販売を始めます。味の良いお米のおこしは評判を呼び、人々が土産にとこぞって買い求めるようになりました。

「恩賜のおこし」が起こした転機

恩賜のおこしの積み出し風景。三代目当主(写真中央)の背丈を越すほどに大量のおこしが積み上げられました。

二代目当主も優れた商売感覚でのれんを発展させ、三代目当主に代わってからも順調に業績を伸ばしていました。そんなあるとき転機となる大きな出来事が起こります。

時代は日露戦争の真っただ中。明治天皇から戦地への慰問品として贈られる恩賜のお菓子に、あみだ池大黒の粟おこしが選出されました。その数はなんと35万箱。納品までに許された期間は3ヵ月しかありません。職人の手でコツコツと製造していた当時では、これほどまで大量のおこしを短期間でつくり上げることは至難の業。とはいえ、陛下からの命とあっては投げ出すわけにもいかず、三代目当主は切腹覚悟の不眠不休でこの難題に挑みました。そして、職人たちの努力が実を結び、無事納期内に製造を終えることができた「恩賜のおこし」。菊の紋章が刻まれ、積み出し時は店頭を埋め尽くすほどでした。その様子を見た三代目当主は、誇らしさと同時にほっと胸をなでおろしたに違いありません。

苦労を重ねたおこしは戦地で兵隊たちの労をねぎらい、おいしいと人気を集めます。こうして全国にあみだ池大黒の名がとどろき、1945年(昭和20年)まで大阪で唯一、宮内省御用達の栄誉を授かることになりました。またこの経験を足掛かりに、四代目当主はおこしの量産を可能にする業界初の製造工場の建設に着手。家内工業が主だったおこしづくりを一気に機械化へと推し進めることとなりました。

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