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黒門市場の誕生と歩み

黒門市場は電気屋街に近く、日本橋界隈は買い物と日本食の両方が楽しめるスポットとして海外でも有名です。

明治の末期まで、堺筋に面した日本橋2丁目に圓明寺という寺があったことから、かつては圓明寺市場と言われていた黒門市場。圓明寺の北東に向かって黒い山門が立っていたことにちなんで、人々はいつしか黒門市場と呼ぶようになります。大阪は徳川幕府時代、全国各地から物資が集まり、経済や金融の要として成長。城下町の南端に位置する道頓堀一帯は、大阪の繁栄を象徴する場所であり、演芸や飲食店が軒を連ねる華やかな街でした。

取れたて野菜や堺から運ばれた鮮魚などが繁華街に近い日本橋と千日前の間で立ち売りされ、これが黒門市場の始まりであると伝わっています。明治35年には大阪府が正式に黒門市場を公認市場として認可。日本橋筋界隈で立ち売りをしていた者たち約45名が東側にある黒門筋へ移動し、店舗を構えて卸売市場として営業を始めました。ところが明治45年に起こった大火災で、黒い山門や商店が焼失してしまいます。店主たちは不運に負けることなく再建し、大正期には中央市場をしのぐ勢いで発展。「中央市場になくても黒門へいけば」と言われるほどになります。時が昭和へ移っても、戦前までは市場の活気は衰え知らず。早朝から午前中は白い割烹着を着た板前さんたち、正午前から午後3時過ぎまでは主婦など一般の買物客が、午後3時以降は料理屋などの玄人衆がやってきて、にぎわいが絶えることはありませんでした。

市場は絶頂期から低迷期へ

「伊勢屋」と同じく黒門で商売を100年以上行っている店はまだ4、5軒は残っているそう。後継者が絶たないことも黒門の繁栄が衰えない一因です。

戦時中は配給制度のもとで営業を続けていたものの、昭和20年の空襲で黒門市場は壊滅状態に。しかし大阪府の払い下げバラック住宅を建設し、戦後の焼け跡からいち早く復興を遂げました。戦後はミナミのネオン街の活気とともに再び繁栄期を迎え、最大で190店舗が営業。プロの料理人たちが集う大阪の台所として大きな役割を果たしてきました。それが一転、バブルの崩壊で大打撃を受けます。

「得意先やったキャバレーや料理店などが軒並み閉店に追い込まれてしもてね。一時は黒門の店舗数もぐっと減って客足もだいぶ鈍りました。来場者数が最低やったのは2012年で1日1万8000人程度。実際に買い物をしてくれる人はもっと少なかったので、当時はこのままいくとどうなるんやろと心配もありました」と山本さん。山本さんは漬物・味噌の専門店「伊勢屋」を営み100年余りになる老舗店の店主でもあり、黒門市場の変遷を代々見守り支えてきた1人です。2015年の来場者数は平日で1日平均2万3000人にまで伸び、山本さんは東京オリンピックに向けてさらなる増加を期待しています。

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