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出石皿そばの定義

白磁の小皿やそばちょこ、徳利はすべて出石焼。各店で店名などが入ったオリジナルのものをそろえています。

出石皿そば協同組合では近年、出石皿そばの定義を明確にし、地元の味を守る取り組みに力を注いでいます。定義は3つあり、まず1つは、先にも紹介した通り白地の小皿に分けて盛ること。地域色を濃くするために磁器は地場産業の出石焼を推奨しています。2つめには、そばを打つときは地元の水を使うこと。そば本来の香りに影響を与えるため、カルキ臭のする水は避けるのがベター。豊かな自然が育んだ水こそそば打ちに欠かせません。3つめは、地元産のそば粉があるシーズンは優先的に使用すること(ない時期は厳選した国産を使用)。

良質なそばの育成には、水はけのよい土地と昼夜の気候に寒暖差があることが求められます。この条件を満たさない出石は、そばの生産には不向きと言われてきました。しかし、地元ではより出石そばのブランド力を高めていきたいという思いが強く、不利な土地でも育ちやすい品種に着目。減反によりそば栽培に移る農家が増えてきたこともあり、出石産のそばが提供できるようになってきました。毎年晩秋に開催される「出石皿そば新そば祭り」では、その年の秋に収穫された新そばが組合加盟店で一斉に解禁となります。天候に左右されやすく台風に弱いそばは、収穫量が安定しないのが弱点。そのうえまだ作付面積も小さいため、わずか1か月ほどで売り切れてしまいますが、希少な季節の味として好評です。

そばで町おこしに成功

店頭にはお土産用の出石そばも売っています。それぞれ味わいが異なるので、家で食べ比べるのも楽しそう。

出石そばの始まりは、出石藩主の松平氏と信州上田藩主の仙石氏がお国替えになった1706年。そのときに信州からやってきた腕の良いそば職人の技が出石のそば打ち技術に加わり、出石そばとして確立されました。のちに出石焼の白地の小皿に盛るスタイルが定着し、出石皿そばと呼ばれるようになります。そばは江戸時代に材料や道具、製造方法、そばつゆの作り方などに改良や工夫を繰り返し、江戸末期にはすでに現在の形に落ち着いていました。将軍や大名たちの中にはそば好きが多く、1日2食だった当時は間食として好まれていたそう。水戸黄門でお馴染みの徳川光圀公もその一人でした。そばの特産地としてすでに名を馳せていた信州からわざわざそばの種を取り寄せて水戸藩内に播かせたり、自分でもそばを打ったりして客人に振る舞っていたようです。

江戸の街ではこのころ、手軽なファストフードとしてうどん人気をしのいでいたそば。一方の出石ではなかなか広がりを見せず、盛り上がってきたのは実は昭和に入ってからのこと。昭和40年代後半、そばで地域活性化を図ろうとご当地名物に掲げたことがきっかけで注目が集まり、観光客数が右肩上がりに急増。それとともにそば屋の軒数も増えてきました。出石はそばを活用した町おこしに成功した数少ない地域でもあるのです。

【コラム】意外?そば屋発祥は大阪

そば文化は関東を中心に発展し確立されていきましたが、日本最古のそば屋を探ってみると、意外なことに大阪にたどり着きます。「更科」「藪」「砂場」と言えば江戸蕎麦の御三家。このなかで最も歴史があるのが「砂場」です。1590年代に豊臣秀吉が大坂城を築城した際、砂や砂利を積んでいた砂場の近くにあった「和泉屋」と「津国屋」の2軒がそばを提供していたことから、利用客らが親しみを込めて通称“砂場”と呼ぶようになりました。大阪市西区にある新町南公園には「本邦麺類店発祥の地」と刻まれた石碑が立っています。その砂場が1751年に江戸に渡り「大和屋大坂砂場そば」の屋号で開店。その後、次々と新しい店舗ができたことで関東にそば屋が広がっていきました。

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