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苦労が続いた納豆づくり

「納豆BAR小金庵 粋シリーズ」は華やかなパッケージと斬新な味で、贈答用としても人気があります。先代からの納豆づくりの技は受け継ぎつつも、見た目や味に女性目線をプラスし、時代に則した変化をはかりました。

日本一の納豆の生産地といえば茨城県。関東地方や東北地方が消費地のトップを占め、関西地方や西日本の消費量は多いとは言えません。ではなぜ、小金屋食品は大阪で納豆づくりを始めることになったのでしょうか。
創業者である吉田さんの父・小出金司さんは山形県の出身。幼いころから食べ慣れた納豆の味に惚れ込み、納豆文化の薄かった関西でも広めたいと、昭和26年に16歳で単身大阪へ。その当時大阪に1社しかなかった納豆工場に丁稚として奉公し、独立を夢見て厳しい修行を積みました。昭和36年、現社の前身にあたる小金屋商店をオープン。しかし、納豆を生産するための設備が整えられなかったため、最初は漬物や味噌を売って生計を立てていました。その傍らでコツコツと作り続けたのがわら納豆。一つ一つ丁寧にわらをゆわき、こたつを使って発酵・熟成させて販売していたそうです。昭和42年、長年の夢が叶い、ついに納豆工場を設立。山形納豆の名を掲げた商品に故郷への想いを重ね、大阪人の舌にも馴染むようにと必死に味を模索しました。そんなあるとき、突然不運が襲います。地道な努力の甲斐もあり、少しずつお客さんが増え始めたころ、火事で工場が全焼。まさかの事態に一瞬目の前が真っ暗に。しかし苦難を乗り越え、現在の場所に工場を再建したのは、それからわずか1年後。小金屋の納豆を待つお客さんに早く商品を届けたい一心で、金司さんは前へと突き進みました。

亡き父の想いを引き継いで

稲わらに包まれた納豆は、関西では珍しい商品。わらを解くと大粒の納豆が顔をのぞかせます。

納豆づくり一筋で職人気質だった金司さん。勘と経験だけで仕込むわら納豆の味は金司さんでしか出せないと、創業以来その製造を一手に担っていました。そのため、晩年金司さんが病に倒れたときはレシピすら残っていない状態。味だけは製造を支えていた金司さんの妻が記憶していたものの、詳細な作り方は誰にもわかりません。元気になることを信じ、病床でもずっと納豆のことを気に掛けていた金司さん。「早く現場に戻って新しい納豆を作りたい」とばかり口にしていたそうです。「最期に父が言い残した言葉が『もう一個作りたい納豆があるんや』でした。それが何なのか具体的なことは話しませんでしたが、思いを巡らしてみると、父の想いは原点の納豆づくりにあるんじゃないかと。小金屋はわら納豆から始まったので、それなら残された私たちが本格的なわら納豆を作ってみようと決心したんです」。金司さんの情熱は吉田さんたちに引き継がれ、新たな挑戦が始まることとなりました。

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