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ぶどうの産地日本一だった大阪

実りのシーズンを迎えた堅下甲州ぶどう。
陽の光を受けて粒が輝き、一目でみずみずしさがわかります。

かつて、大阪ではぶどう栽培がさかんに行われていました。そのきっかけとなった品種を、カタシモワイナリーの自社農園で見ることができます。

まるで藤の花を思わせるような淡い紫が神々しい堅下甲州ぶどう。小ぶりな粒を口の中に放り込むとぷちんと弾け、上品な甘さとさわやかな香りが広がります。ワインはただ飲んでおいしいというだけではなく、なぜその地域でぶどう栽培が始まり、ワインができるようになったのかというバックグラウンドを知ることが大事と高井さん。知識を深めると、1杯の味わいが増すと言います。

その昔、長雨や日照不足に弱いぶどうは、百姓たちにとって作りにくい作物でした。明治時代に堅下村の中野喜平氏によって効率的なぶどう栽培の方法が発見されると、百姓たちがこぞって作るようになり、大阪の産業として大きく発展。大正の終わりごろから昭和初期まで、大阪が山梨を抜いて日本一のぶどうの産地として栄えることとなります。

利洋さんの曽祖父にあたる高井利三郎氏は、明治初期にぶどう栽培に適した河内堅下村の土地を開墾し、大阪ぶどうの黄金期を築いた立役者。その後、カタシモワイナリー創業者で利洋さんの祖父の高井作次郎氏が、果樹園を営みながらワインの醸造方法を研究し、質の高いワインづくりを成功させました。以降、大阪ワインメーカーのパイオニアとして、カタシモワイナリーは第一線を走り続けています。

ワインブームの流れと国産ワインの現実

ずらりと並ぶ樽の中では、発酵を終えたぶどうの果汁が熟成中。おいしいワインへとゆっくり成長しています。

やがて時代は第二次世界大戦へ。ハイカラな飲み物として人気だったワインは、戦後庶民的な一升瓶に変えて販売されるようになりました。最盛期には119社にまで増えていた大阪のワインメーカーも次々と廃業へと追い込まれていき、長い低迷期に経営者たちは苦しみます。

そこに訪れた起死回生は、昭和53年の海外旅行ブームとともにやってきた第一次ワインブーム。更に、平成10年には情報番組の影響で健康に良いとワインが見直され第二次ブームが始まり、現在は右肩上がりで出荷数を増やしています。

しかし、こうしたブームの中にあって日本のワインに目を向けると、輸入ワインに押され気味なのが現状と高井さんは嘆きます。「輸入ワインは安いでしょ。だからどうしても輸入ものへとニーズが流れてしまうんです。今は1本750円未満のワインが日本での売り上げの90%を占めていると言われていて、その多くが輸入ワインなんですよ」。

現在の国内シェアの割合は、65%が輸入ワインで35%が国産ワイン。その35%の中には輸入ぶどうの果汁を発酵させたものが65%を占めています。日本の酒税法ではワインの原料に外国のものを使っていたとしても、国内醸造であれば国産ワインとうたうことに問題はありません。日本で育ったぶどうを使い国内で醸造している、本当の意味で日本のワインと呼べるものは一握り。これでは日本のぶどう栽培農家や日本のワインは衰退していくばかりです。

こうした流れに歯止めをかけ、日本のワインに対する国内外でのブランド力を高めていこうと、政府が品質を保証するワイン法制定に向けた動きも一部で進んでいます。

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