トップ > 賢人の食と心 > 第11回「平常心是茶」茶の湯に宿る日本人の心(前編)

第11回(前編)

享保4年(1719年)、3月。江戸千家の流祖である川上不白は、現在の和歌山県に紀州新宮藩士であった川上五郎作の次男として生を受けます。15歳で江戸に出た不白は当初俳諧を学んでいたといわれますが、16歳の時に茶匠への道を志して京都へ上り、表千家七世家元如心斎宗匠の許で16年もの間、千家の茶道を学びます。 そして、寛延3年(1750年)、千家の茶の湯を広めるべく再び江戸へと向かいました。
それから、260有余年。江戸に花開いたお茶の文化は全国へと広がり、その技と心は川上家代々によって大切に守り伝えられています。

今回は、江戸千家宗家蓮華菴副家元 川上紹雪様に、江戸千家のはじまりと流祖不白様についてお話を伺いました。

川上紹雪様

1958年東京生まれ。
江戸千家宗家蓮華菴副家元。大学卒業後、京都大徳寺如意庵に入寺、立花大亀老師のもとに参籠。大亀老師から「紹雪」の安名を授かり、披露の茶会によって若宗匠の格式を得る。
一般財団法人江戸千家蓮華菴常務理事
東京茶道会理事
江戸千家不白会副会長

タイトル1

江戸千家宗家は、流祖の初代川上不白(ふはく)より始まり、私の父である当代の川上閑雪(かんせつ)で十代目となります。

不白は16歳の時に表千家の門を叩き、七世家元・如心斎(じょしんさい)宗匠の内弟子となって茶道を学び始めました。やがて、如心斎と揺るぎない師弟関係を築いていった不白は、如心斎から「真台子(しんのだいす)」と、更に上の「長盆(ながぼん)」の相伝を受けるに至ります。

如心斎は、京都の町衆のお茶である千家の茶道を江戸に広めようと、高弟であった不白にその使命を託します。それが不白32歳のとき。如心斎の元で修行を始めてから16年が経っていました。

江戸に下った不白は、初めは神田駿河台に黙雷庵を、後には神田明神境内に蓮華庵と花月楼というお茶室を建て、お稽古を始めました。

神田明神は江戸の町人にとって産土神(うぶすながみ)と言われるほどに精神的なよりどころであったと同時に、武家地からも近かったこともあって、江戸町人のみならず武家の方々に至るまで、江戸市井の人々に広く京都の千家のお茶を浸透させていくことが出来たと思われます。

しかし、江戸は徳川幕府のお膝元でしたから、武家社会の茶道は徳川家の茶道である石州流(せきしゅうりゅう)という武家茶道が主流でした。千家のお茶は町衆のお茶ですから、人口の二人に一人が武士である武家都市へやって来て最初から上手くということはなかったようです。そこで、様々な工夫をしたのではないかと思います。

幕藩体制の時代にはありましたが、江戸時代も中期を迎え、有力な町人たちが現れ、やがて庶民たちも文化の世界に遊ぶ機運が高まりつつある頃、時を同じくして不白が京都から千家茶道を携えて江戸に下ってきたということができるでしょう。江戸町人たちの間で不白がもたらした千家のお茶が流行し始めると、大名たちの中から千家のお茶もやってみようという人も出てきたようです。そういった時代の流れもあって、少しずつ受け入れられていったのでしょう。

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