時代と共に歩む老舗料亭の味と伝えたい日本の食文化(前編)

京都の洛北に位置し、東に比叡山、西に高野川の清流を望む山端(やまばな)の地に「山ばな平八茶屋」はあります。創業は天正年間(安土桃山時代)。今から約430年前、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道(通称:鯖街道)沿いに初代の平八さんは茶店を営み始めました。かつて街道を行く旅人は、ここで一服のお茶を飲み、麦飯とろろをかき込んで旅路についたそうです。

今回は、21代に亘り家業として続く平八茶屋の主人 園部晋吾さんに、ご自身の料理に対する思いや食育に係わる活動についてお話を伺いました。

園部 晋吾 (そのべ しんご)1970年 京都生まれ。

1970年 京都生まれ
平八茶屋21代目主人。大学卒業後、3年間の修行を経て家業を継ぎ、現在は経営者、料理人としてだけでなく、特定非営利活動法人日本料理アカデミー地域食育委員長を務め、京都料理芽生会理事、京都市教育委員会の日本料理に学ぶ食育カリキュラム推進委員としても食育活動に従事。子ども達への食を通した教育に尽力されています。
また、2006年には京都府青年優秀技能者奨励賞(明日の名工)を受賞されるなど、料理の知識と技術の向上に努められています。

その昔、日本海・若狭湾でとれた海産物は、京都まで歩いて運ばれていました。特に鯖(サバ)が多かったことから、鯖街道とも呼ばれる若狭街道。傷みを防ぐために塩をまぶした鯖は、京の都に着く頃には程よい塩加減になることから、昼夜を通し寝ずに運んだそうです。その街道沿いに街道茶屋として発祥し、名物「麦飯とろろ汁」や海の幸で旅人をもてなしていた平八茶屋は、鉄道が通り街道がすたれた明治の頃には、傍らを流れる高野川や琵琶湖でとれる川魚の料理屋へと変わっていきます。その後、先々代となる19代目のご主人により旅館が開かれます。そして先代の20代目は、かつてのように日本海の幸を取り入れ、もう一つの名物となる「ぐじ(甘鯛)」料理を始められました。 美食家としても知られる北大路魯山人との交流や、夏目漱石の小説にも度々登場するなど、多くの逸話が残る平八茶屋は、400年以上の歴史ある風雅な料亭として、広く知られています。

*川のせせらぎが聞こえるお部屋で頂いた、初秋の若狭懐石を合わせてご紹介致します。
若狭懐石は、名物であるぐじ(甘鯛)を中心とした季節のお料理と麦飯とろろ汁を楽しめるコース料理です。

むぎとろ饅頭と薄茶
麦飯とろろ汁にちなんで作られたという、小さな薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう) 。粒餡を山芋入りの薄皮で包み、てっぺんには香ばしい一粒の焼麦が。

後継ぎとして決められた道

平八茶屋は、天正年間、初代平八が茶店を始めた約430年前からこの場所にあります。代々一子相伝の家業としてやって来ましたので、敷地の中に店と自宅の両方があります。子供の頃はよく庭で走り回ったりして遊んでいました。両親はいつもここの店におりましたし、時間をみつけては遊びにも連れて行ってもらいましたので、休みが合わなくても放っておかれたという思いはありませんでした。

ただ、普通の家庭と少し違うところは、物心付いた時にはすでに周囲から「若旦那」と呼ばれて、祖父母や周りの従業員さん達からは「いずれはこの店を継ぐんやで。」と何度となく言われていました。結局は洗脳ですよね(笑)。ですから、漠然と大人になったら後を継ぐのだろうなという思いはずっと持っていました。

大学に入って周りが就職活動を始めた頃、一度別の仕事をしてみようと思った事があったんです。決められた道に対して本当にこれで良いのかという疑問があって、他の仕事を経験してから店に戻っても良いのではないかと考えました。それで私も就職活動をしたのですが、最終的には全く別の仕事をして遠回りをするよりも、いずれ家業を継ぐのであれば少しでも早い方が良いと思い直して、大学卒業後すぐ修行に出ることになりました。家業を継ぐという覚悟を、この時に決めたのです。

あとから聞いた話ですが、父も祖父も若い頃には反発して家を出たことがあったそうです。家業であるがゆえに代々みなそういう思いがあったのかも知れません。決められた道にそのまま進むということに対して親と子の間で考え方に違いがあると、それが反発として芽生えてしまい、なかなかすんなりとは行かないものだと思います。

家業を継ぐまでに必要な経験

子どもの頃、洗い場で皿洗いをしたり、料理を座敷に運んだりなど店の手伝いをしていましたが、調理場には一切入れてもらったことはありませんでした。大学卒業後に大阪の料亭へ修行に出てから初めて調理場に入ったのです。初めの頃は下っ端ですから、先輩方よりも1時間前には調理場に入って、いつでも仕事ができるように準備しておき、終わった後は先輩方が帰ってから掃除や後片付けをして帰ります。

正直しんどいと思ったことは何度もありました。帰って寝る時間がなくて、調理場で仮眠することもありました。2人いた同期は1年経たずに辞めてしまいましたし、次の年も3人入って来ましたが全員辞めてしまったので、2年ほどの間、18人いる先輩の下は私だけだったのです。

その料亭には料理長や先輩方に対するお茶出しなどの細かい決まりがあって、与えられた自分の仕事をしながら、それもこなさなければなりませんでした。仕事をどういう順番でどのようにしてこなすかをしっかり組み立ててやって行かないと到底終わらせることが出来ません。これを俗に「追い回し」というのですが、本当に色んな人に色んな仕事を言われます。それを要領良くこなすということには大変頭を使いますし、苦労しました。

向付 真鯛重ね造り
本来は名物の一つである「ぐじの向付」が供されるところですが、天然ものしかないぐじは、状態の良いものが手に入らないこともあるのだとか。 この時は、新鮮な瀬戸内の真鯛のお造りが用意されました 。

でも、どんなに厳しい事を言われても、寝る時間が短くても、辞めようと思ったことは一度もありませんでした。辿り着きたい場所が自分の中ではっきりとわかっていましたから、そういうふうに学べるということが楽しかったのです。家業を継ぐ覚悟を決めていたからこそ、私は続けられたのだと思います。

私がこの修行の中で学んだことは、日本料理を作る為の知識や技術ではなく、仕事に向かう姿勢や意識、自分が置かれた立場での仕事のやり方を自分で考え、行動するということだと思います。平八茶屋の後継ぎとは言え、私が他人に使われた経験のないままいきなり調理場に入って仕事を始めてしまったら、当主の息子というだけで周りの従業員は意見もしにくいですよね。 他所での下働きをした経験があるからこそ、それぞれの立場で物事が捉えられるようになり、料理に携わる者としてだけでなく、経営者として店のことや人とのつながりを一番に考えられるようになったのだと思います。


430年以上絶えることなく続いて来た理由

店には3年の修行を経て帰って来ました。それからずっと父の仕事を傍らで見ていると、こうした方が良いのにというところが出て来ます。でも、その当時は父の代ですから、父のやり方があります。父には「お前の代になったらお前の思うようにしたらええ。」と言われていたので、自分の代にしたいことを毎日の仕事をしながら考えていました。もちろん、守らねばならないものに対して、時代に合わせて変えて良い範囲というものはわかっています。

私自身、人と同じことがあまり好きではないので、今までにない要素を加えたり、違う形にしたり、自分の代になってから色んなことを変えて行きました。その変化に父は戸惑っていましたが、父も祖父のやり方を変え、私も父のやり方を変え、そうしながらまた次へと繋いで行くのだと思います。ですから、私のやり方もたぶん私の子どもは変えて行くでしょうね。 もし、その時代その時代の当主が、受け継いだことを代々変わらずそのまま同じようにしていたら、平八茶屋は400年以上も続いていなかったと思います。これまでの当主が時代の変化に従って何が最善かを考え、引き継ぐところは引き継ぎ、変えるところは変えて来たからこそ今まで続いて来たのだと思います 。

土瓶蒸し
夏の名残の鱧(ハモ)と走りの松茸、秋の香りと出汁の味わいが際立ちます。

ある時、50年ぶりに来て下さったお客様が、不思議なことをおっしゃいました。お座敷に座り、料理を召し上がって、「ここのお店は変わらんなぁ。」と。50年前と言えばもちろん当主は違いますし、料理も器も店の様子も変わっているはずです。それは、きっと時の流れの中でその人が変化して行くように、店も変化して来たから「変わらない」と感じたのではないでしょうか。その方が来て下さった50年前からずっと同じままでいたら、時代に取り残された古くさい店になって、「このお店、変わったなぁ。」と言われていたんじゃないかと思います。その「変わらんなぁ。」と言っていただける部分が、平八茶屋が400年以上続いている所以であって、自然に引き継いでいる、残していかなければならないところだと思っています。それは言葉で表現出来るものではなく、明文化されているわけでもなくて、この店のこの場所に生まれてずっと住んでいる者が、この店をどうして行くかを考えている中にあるのだと思います。

八寸
小鯛の手まり寿司、小茄子の田楽、銀杏とシメジの焼物、酢橘釜(いくらのみぞれ和え)、柿玉子。小さな虫かごを開けると、秋の月夜を思わせる味覚が盛り込まれています。

21代目の味を確立する

私の代になってから、基本の出汁をとる昆布やその煮出し方法を変えました。それは何故かというと、以前は出汁を作るときの材料の量も味も感覚で決めていたんです。そうすると、出汁はその店の味ですから、いつも作っている人でないと作れないとか、同じようにしたつもりでも今日はなんとなく薄い、濃いという誤差が出てしまうとか、そういうことがあったのです。

以前、同じ京都の料亭のご主人や、他の方々と料理の勉強会をしている中で、大学の先生を交えて昆布を煮出す実験をしてみました。その時、昆布の場合は60~65度の温度帯が1番グルタミン酸、つまりうま味が出やすいということがわかったのです。それで、今ではじっくり低めの温度でうま味を出してから沸騰直前まで温度を上げ、昆布の風味をつけるという出汁の取り方をしています。 そのように、今までレシピがなかったものを全部数値化して行きました。ですが、レシピは誤差を少なくするためのもので、それで完成というわけではありません。量り方やその時の食材による違いもありますから、味をみながら調整し、最終的には自分が味を決める。これは欠いてはならないことだと思います。

麦飯とろろ汁、香物
創業当初からの名物。つくね芋を秘伝の出汁でのばし、白味噌などで調えたとろろ汁と、麦飯との相性は抜群。香り豊かな青海苔が、さらに風味を引き立てます。 また柴漬けは、洛北・大原の名物です。

平八茶屋の名物の一つに「麦飯とろろ汁」があるのですが、こちらも父のときとはお米を変えました。私自身がうちの麦飯を食べていて、麦の粒の食感とコシヒカリのもちっとしたやわらかさに違和感を覚えたんです。 父はその時代で一番良い食材を使うという考え方でした。ですが、私は食感と食味のバランスを考えたんです。それで、様々な品種の米を食べ比べて麦の食感に近い朝日米にいきつきました。朝日米と麦を一緒に炊いたご飯に、とろろを入れるとすっと馴染み、それぞれの食感を残しながらもバランスがとれるのです。朝日米は現在岡山県で作られている品種ですが、元々は京都で作られていたお米が原種であることを知ったときには、何か縁のようなものを感じましたね。

このように、以前とはやり方を変えても、私が作る料理は変わらない日本の伝統料理であり、平八茶屋の料理なのです。だからこそお客様には代々受け継いで来た「平八茶屋の味」というものを感じて頂けるのだと思います。これが、先ほど言った平八茶屋の「変わらない」部分なのだと思います。

■店舗情報■
山ばな 平八茶屋|京都府京都市左京区山端川岸町8-1|電話075-781-5008|水曜休|http://www.heihachi.co.jp/

長い歴史を持つ平八茶屋は、伝統をただ“守る”のではなく、良いものをより良くするために“変える”ことで、常にその時代に合ったお店であり続けて来ました。ご主人の思いを伺って、平八茶屋がどの時代の人にも愛されるお店である理由がわかったような気がしました。 そして、ご自身のお店のことだけではなく、日本の食文化そのものを未来に継承して行くために21代目ご主人は様々な活動をされています。後編は、その活動についてお伺いします。

(2013年9月取材・文 島田優紀子)

(後編へつづく)